人は最も人らしく

APPLESEED [DVD]

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アバン――暗視ゴーグルを外したデュナンのファースト・カットには強い違和を覚える。理由は目にあるが、それは派手なマスカラのせいではなく、現実よりもリアルな身体の挙動によって相対的に目に対する違和が生じているのかもしれない。動きと見てくれのギャップに、これが人間を表現しているという意味付与がスムースに行えなくなってしまうのだ。
が、面白いことに、その違和が図らずもあることを教えてくれる。即ち、人間もメカも廃墟も全てはまずモノであり同列なのだということ。そしてそうした中での人間とモノとの峻別にこそ、およそヒューマニズムとされるあらゆるスタンスの源流が求められること。だからアバンでの違和は貴重であり、またこの作品にはこの映像でいいのだろうと思う。なぜならこの作品は、ゼロからの意味付与に始まるヒューマニズムの物語だからだ。
と言っても別に話がサルから始まるわけではない。見る側にとっては「これは人間である」という記号認識から、「これが人間である」という意味付与へ。またデュナンにとっては即自から対自へ、そして――。
もっとも両者の心的態度のシンクロまでには話が半分ほど進むのを待たなければならない。それまではほぼ慣れるためだけにあると言っていいだろう。慣れるとはつまり知覚における印象と観念の反復を指すが、前半のストーリーはそのためにありそのためにしかない。クライマックスの傍証的要素を除くと伏線らしい伏線は一つくらいなもので、デュナンとブリアレオスの関係にしても説明的だ。おかげでシークエンスに冗長さは否めないのだが、要はイベントの幕が上がるまでの間、綺麗な映像とカッコいいアクションをただ楽しめばいいのだ。繰り返しになるが、そうすることでアバンでの違和は解消されていく(了解1「これは人間である」)。

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さて、いよいよイベントの幕開きだが、研究施設でデュナンがフォログラムを目にする件はエピソードとしてオーソドックスすぎるかもしれない。状況が知れると同時に事の顛末が分かってしまう。けれど全てが分かっていて、そのとおりに話が進んでこそこのエピソードはグッとくる。なぜなら、デュナンにとって目にした出来事は過去に起こってしまった出来事ゆえにやり直しの利かない事実であり、見る側にとっては合目的的に組まれた出来事ゆえに変更のならない事実であり、かくしてデュナンの悲痛な叫びは見る側の思いとなるからだ。そしてアバンでの違和が解消された今、ここに感情移入の経路が開かれる(→感情のシンクロ)。
その一方で、フォログラムによる過去の出来事の再現はアバンでの母子像破壊の回収に当たり、これによってデュナン・ナッツという物語の構造が明らかになる。即ち、デュナンは常に状況の中にあるが、単なる当事者としてではなく、行為主体(価値の実践的主体)として状況に参加するか否かを自らの責任において選択しなければならないということ。掛かるリスクや結果がもたらす不利益を含めて状況を引き受けるかどうか、その自己決定にこそデュナン・ナッツという物語――個性――の根拠があるからだ。そして、ならばこそ母は願いを込めてアップルシードを託し、父は娘を戦闘マシーンとして鍛え上げた。この実存的意味が物語のクライマックスに向けた布石となる。シークエンスはまさしく任務なのだ。
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アテナによる抱擁はヒトに対するバイオロイドの、そして任務を終えたデュナンに対する母・ギリアムのそれであり、クライマックスは物語から迎える。つまりデュナンと七賢老のやりとりがそれだが、安楽死という表現が端的に表しているように、ここでのやりとりはオートノミーパターナリズムの関係にある。
七賢老は<人類>の存続を目指してきたが、それはまたヒトの危うさを分析していく手続きでもあった。だからまず過去の出来事の事実性から共通に認められる要素を抽出し、これをもってヒトの本質――人間性――とする。そのうえで将来を試算してみたところ、<人類>は三世代のうちに地球と共に滅んでしまう結果になり、ヒトにはもうこの星を維持する力はないと結論づける。そうして、ならば新人類(活性化されたバイオロイド)にイニシアチブを委譲することが望ましく、そのためにヒトは滅ぶべきなのだと考えるのだが。
分析の手続きは正しい。試算の結果に対する結論も見解として妥当なものだ。また、<人類>という観点からすればヒトの安楽死という選択肢もあるだろう。しかしそれが自発的な選択であったとしても、ヒトの死はヒトに完結するものではない。そこには他者との合意が求められ、それによって初めてヒトの結果に対する責任は担保される。そして自己決定には、その責任があらかじめ織り込まれているのだ。にもかかわらず、こうした考えに至るのは自己と他者との同一視によるだろう。七賢老にとって新人類は被造物ゆえに、「われわれ」であるところのヒトに対して「子供」でしかない。またその「われわれ」にあっては普遍的な人間性こそヒトの本質なのだから、現実がそれぞれに異なる個性から成り立ち、自己決定はその個性より生まれ出る表象であることが見過ごされる。
故に、デュナンは声を大にして異を唱える。任務を終えた今だからこそ判る暴力に、自らの責任と選択によって獲得したデュナン・ナッツという物語をもって――ならば、立体区最上階からのダイブこそ物語のクライマックスには相応しい。それは事実と意味の地平から行動の地平へと踏み出す志向であり、イデアとの訣別に他ならない。つまりヒューマニズムだ(→態度のシンクロ)。
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クライマックスを迎えた物語がストーリーへピリオドを打つときが来た。多脚砲台との攻防は映像的に一番の見せ場だろう。とりわけ巨大な原理の塊であるところの多脚砲台の威容、深遠な色合いと死角のなさ、あくまでも規則正しい駆動音にはヌミノーゼの感覚すら覚える。それだけに謂わば原理の権化たる多脚砲台との対峙が、最終的に生身によって行われているのは印象的だ。イデアとの訣別がそうであったように、これまで見てきたデュナン・ナッツという物語において、この展開は極めて示唆的だろう。
ところで、デュナンと七賢老のやりとりは、実のところエゴイズムの対立でしかなかった。状況は常に変化しており過程はアモルファスな関係にある。そうした中で自らが行為主体であるかぎり、何事もエゴイズムを免れることはできない。だからこの作品はイニシアチブが外部よりもたらされる。即ち、「俺たちは任されたんだ」というブリアレオスのセリフがそれだ。かくして偶然は必然へと変わるのだが、ここに事後性を見ることができる。つまり論理的な意味は、ただそれだけでは意味として成就しないのだということ。なぜなら結果は原因を必要とせず、そこに経験はないからだ。経験しないものはモノでしかない。
かつてデュナンはヒトミに、「自分は何も知らされないまま、何ヶ月も意味のない戦いを繰り返していたのか」と問いかけた。それはそこに意味があるから「する」ということだが、意味は求めるものではなく創り出すものなのだ。そして「する」とはそのための手段であり、そのことをもって「私」は自らを未来へ投企する。だが刻々と変わる状況にいかな必然も全的なイニシアチブを意味しない。だから「私」が「私」であるかぎり、自らの責任と選択において戦い続けなければならない。しかし何のためにか?――その答をデュナンは最後に見つけることになる(了解2「これが人間である」)。